ラオス日記 (2005年2月16日〜)
と書いたものの、やはり、日記はあまり更新されないでしょうから、日記とは呼びがたし。なれど・・・・まぁ、いいかぁ。ボペンニャン。
一応カレンダーは下にありますが・・・・・


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2月18日(金)
年中行事ですが・・・・・・電話修理


毎回、来るたびに電話が通じない。今回は5ヶ月ぶりということだが、案の定通じない。
1、電話代の滞納によって、電話が切られている。まず、電話局に電話代を払いに自転車をこいで行く。確かに滞納していた。それを払い、「今日の4時には通じるわよ」と言われる。さて、4時。それでも、うんともすんとも通じない。
2、案の定、電話線が切れているのだろう。また、電話局に言いに行く。「修理係に連絡しておいてあげるわ。あしたよ、あした」と言われる。その話を、ラオス在の友人に言うと、「無理だよ。うちも2週間修理に来ない」。あぁ、しばらく電話は通じないのか・・・・とがっかりする。
 でも、今回は、なんと、大家のおばちゃんの同級生が、電話修理班にいたとかで、意外にも早く修理に来てくれた。修理に来た時、一緒に外の電話線を見ると、なるほど、見た目にもわかるほど、ちゃんと切れている。通じないわけである。「この辺の地域の電話線は古いからなぁ。ちょうど、新しい電話線、あるから替えたら?」といわれ、即、取り替えてもらうことにした。
 さて、電話が通じる、この嬉しさ。さっそく、メールをつなげてみる。通じない。ちぇ!また、電話局まで自転車をこぐ。今度は、メールアドレスの名義がなくなっている。一緒に使うといっていた友人が、勝手に解約したとのこと!がっくり。ちぇ、何で一言いわないんだよ。再び、そのアドレスの復旧手続きを取り、さて、「今日の5時にはつながるよ」といわれたものの、通じない。がっかり。次の日、また自転車をこいでいく。
「なんで通じないの?」と、メール担当のお兄ちゃんは、「おかしいねぇ、大丈夫なはずだけどおー」といいながら、確認をする。「ほら、つながったよ」
「わぁ、ありがとうありがとう、たすかったぁ」と私は何度もお礼を言った。
「でも、何でつながらなかったの?私が悪かったの?」
「いや、ここで復旧手続きをまだしていなかったんだよ」と、すらっと言われ、私は、それでもつながった嬉しさに、「あぁ、つながって嬉しい。ありがと、ありがと。コープチャイ」といいながら、電話局を後にした。そこで考えてみたら、なんだ、私の手違いでもなし、なんで、あんなにお礼を言ったんだろ?言わなきゃよかったと、また、ちぇっ!と思ったのだったけれど、すべて、まっいいかぁ。ボペンニャンで事は進むのである。

2月22日(火) お見舞い

 

 今日、チャンタラーを見舞いに行った。彼女は、以前図書館で働いていたときに、一緒に仕事をしていた人だ。やはり図書館員のプービエンがバイクで連れて行ってくれた。バイクで30分ほど走って、ペプシ工場の近くの道を入るときれいな一軒家が建っていた。建てたばかりなのだろう。それなのに彼女の余命はあと2ヶ月ほどだそうだ。
 彼女は癌だ。マレーン・ラムサイ、大腸癌だという。もちろん、本人はそのことも、余命のことも知っているという。

 彼女は36kgになってしまったという。こちらに背向けて横たわった身体、やせ細った腕と脚が見えた。顔を向けると、彼女のままだった。骨ばっているけれど、目の光も失わず、しっかりとした口ぶりで話した。
「ジョイノォ・・・痩せたね・・・でも、ンガームクゥガオ 前と同じに美人だね」と、私は言ったら、涙が出てきてしまった。

 腸からもうあちこちに転移しているのだという。今は背中が痛くて仕方なくて、寝返りもううてない。

 彼女は少し早口のいつもの口調で、きっと何度も、いろんな人に話しただろう話をした。
 フランスに1ヶ月研修で行っていた時に、もうお腹が痛かったの。でも医者に行かなかったから、今思うと本当に残念だわ。ラオスに戻ってきてから、お腹が痛くて普通の医者にいろいろ行ったのだけど、わからなかった。すぐに癌の専門医に診てもらっていたら、間に合ったかもしれないと思うと、残念で仕方ないわ・・・・・ビエンチャンの大きな病院に行ったら、日本人の医者がいてね・・それで腸に癌がたくさんあってもう転移しているってわかったの。それで、でも、信じられなくてタイの病院に行った。一人で行ったのよ。そしたら、お医者さんはやっぱり癌だって言った。一回切ったのだけど、それからその後、すぐにまた転移してしまったの。普通なら数年は大丈夫だっていうのにね・・・・私は薬で抑えることにしたんだけど、でも髪の毛も抜けないの。このままなのよ。だから、薬が本当は効いていないんじゃないか、弱い薬しかくれていないんじゃないかって思うのよ。結局、お医者さんからも、もうこれ以上お金かけても無駄だから、家にいなさいって言われて・・・こうして家で寝ているのよ。自分がまさかこんなになるなんて思ってもみなかったわ。またね、歩けるようになって働きに行きたいよ。また、起き上がって働きたいわ
・・・・・

と、チャンタラーは言った。この人は図書館の中でも、本当にしっかりした、まじめな頼りになる人だった。

「私ね、本当は幼稚園をやりたかったの。好きなのよ。残念だわ。本当は日本の幼稚園に研修にに行く奨学金があるのよ。でも、今となっては無理よね」と、彼女は淡々と言った。

 食べられないと言う。私が、誰にあげようかな・・・と思って持ってきていた、クッキーの詰め合わせをお見舞いに持っていったのだが、「お菓子は食べられるの」と言って食べてくれた。うれしかった。本当に細くなった腕で、お母さんが私たちに出してくれた果物の上を飛ぶハエを追おうとする。やせ細った背中、胸、腕、脚・・・・今までは7時間に一回痛みが襲ってきたそうだが、今は5時間に一回という。そして痛みだすと、死んだほうがいいというほど痛いのだそうだ。自宅で、ただラオスの薬草と、痛み止めだけを飲んで耐えている。でも、しっかりした目で話す。どうしてこんなに強いのだろう・・・と思った。今もう、すべてを悟って、襲ってくる痛みと戦っているのだろう。・・・治るかもしれないよ。きっと大丈夫、よくなるよ----とそんな言葉が言えなかった。言えばよかったのだろうか?なんと言えばよかったのだろう?

 人は生きて死ぬものなのだ。でも、あまりにも理不尽に早い死がある。これもあちこちにある。チャンタラーは、目に少し光を浮かべて働きたい・・・という。もう一度図書館に行きたいという。本当に、そんな当たり前なことが幸せなんだろう。気がつかないだけで・・・彼女は残していく二人の子どもには触れなかった。あまりにも辛いだろう。彼女自身は8人兄弟の末っ子だそうだ。ルアンパバンから出てきているお母さんは、末っ子が一番先にいってしまうのを見るのか。なんともやりきれなさそうに表情もなく、ただ座っていた。3月3日、彼女は40歳の誕生日を迎える。

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2005年2月23日(水)シヴィライ村へ

 朝5時起き。起きて準備。大した支度があるわけではないが、心の準備がちゃんとできないと、だいたい村に行くのが億劫になってきて、「あぁ、明日にしよう」と行くのをめげてしまうのだ。今日は支度ができてしまい、朝飯もちゃんと食べ、これで出発しないわけにはいかない。

 7時15分発のポンサリー行きに乗る。すいていた。値段も10,000キップで、普通の料金よりも安くて助かった。2時間半で、シヴィライ村着。

 とうとう村から出て行く人が出てきた。ツォー・ブー、ジェ・ブー、ニアション・ブー、そしてイェン・ローの4家族だそうだ。ムアン・フアン(フアン郡)のパサー村というところに行くという。もう、ツォーたちは行ってしまった。
「そこは、サナカームからもそんなに遠くないところで、パクチョムにも近い」という。つまり、メコン川から遠くない場所である。バンビナイキャンプみたいだよ・・・と。彼らが以前暮らしていたタイの難民キャンプからそんなに遠くないところに、モンの一大居住地ができているという。そんなにまたモンがわんさか集まっているというのは、いいような、悪いような・・・だが。
 でも、とうとう、この辺りで食べていけなくなってきたのだろう。土地が元々ないのだから、仕方ない気がするけれど、とうとう人々が分かれはじめてしまった・・・という気がした。

 ボー・リーの息子ペンが、歩けなくなってしまった。
 ちょうど稲刈りの頃、ペンは弟のサイと一緒に、ゴミを探して(プラスチックだの空き缶だのそんなゴミを拾うと、買いにくる人たちが村まで来るという。それで、子どもたちはゴミ集めをしているという)隣村のソムサヌック村の方へと行き、そして木の実のなっている木を見つけて、木に登って実を食べていたらしい。そして、木から落ちた。下には、竹が柵になっていて、その一本の竹の尖った先に、このペンときたら、串刺しになってしまったのだ。突き通りはしなかった。まだ小さな弟が「待ってて、ぼくが大人を呼んでくる」と、村へ行き、ちょうどいた、村医者のガイエンたちを呼んできた。いったいその光景は考えただけでも、ぞっとする。ペンは気を失い、血がおびただしく流れたという。
 両親は稲刈りへ行っていて、遠くにいて知るよしもなかった。ガイエンたちは、両親を待たずに、一刻も早く病院へ連れていこうと、車を雇って、ポンホンの病院へ連れていき、すぐ手術となったのだという。両親は、呼びにきたガイエンの息子の話を聞いて、山を駆け下りてきたというが、妻のウーは、「もう脚ががくがく萎えてしまって、力がなくなって本当に走れなかった」という。そして、夫ボーのバイクで病院まで行ったというが、「本当に今までであんなに長く感じたことはなかった」と言った。そうだろう。
「生きる可能性の方が少ない」といわれたそうだが、本当に幸運にも、竹は背中から突き刺さったが、内臓のほんの少し手前だった。それで、ペンは一命を取り留めた。でも歩けなくなってしまった。ちょうどお尻の上の背骨のところなのだ。左脚への神経が切れてしまったのだろうか、左脚がまるで動かなくなっている。右脚は動くが、ペンはお尻をついて、両手でいざるようにしていた。

 ペンは座り込んで小刀で、矢を一生懸命削っていた。もうみんなのように走り回れない。しばらくずっと私に背を向けたまま、黙って矢を削っていた。座った状態で、お尻をつけ、両腕の力でいざっていく。当初、大小便の感覚もなくなっていたそうだが、最近は少しいいという。ボー・リーとウー・ハー、頑張り屋の夫婦の、長男のペン。無邪気に笑っていたこの少年がいったい、なんていうことになったのだろう。私は、「あぁ、シヴィライ基金やらなくちゃ」と思った。本当に、ここの刺繍で得た利益は全部、ここで使うしかない。そうしても足りないほど、なんだかいろいろなことが起こる。

 夜、母親のウー・ハーは、私を夕食に呼びにきたが、案の定、「刺繍を買って。また息子を病院に連れて行くの」と、刺繍を出してきた。きれいに刺繍されている。かばんに刺繍の布が縫い付けてあったが、植木鉢に植わったような花が刺繍されている。「これね、病院にいたときに、花が鉢に植わっているのが見えたの。それで刺繍したのよ」と言う。
 ビエンチャンにある150ベッド病院(という名の病院がある)に1ヶ月以上付き添っていた。付き添いの合間に、窓から見えた花を刺繍したのだろう。どんな気持ちだったのだろう?
 全部で、1500ドルほどかかっているという。日本円にしたら、こんな重症だったのだから、たいしたことないのかもしれないが、モンの人にしたら大変なお金である。彼らは、アメリカやフランスに親戚がいるので、少しずつ送ってきてもらったという。夜、ペンの背中の傷を見せてもらった。まだ傷はうずいているようで乾いていない。赤く生々しくて、私は手で半分目を覆って見た。ただガーゼを替えるだけで、何の消毒もしていない。大丈夫なのだろうか?「最初の頃、もっとこの傷口の穴が大きくて、赤くて中が見えて、私、お医者さんがガーゼを替える時、逃げたのよ」とウーは言った。お尻にも丸くへこんだような穴があった。それはペンがお尻で這うから、それで石が食い込んでしまったのだという。ペンは、今、ヤン・ゴンと名を変えた。こんな事故にあったから名前を替えたのだ。でも母はいとおしそうに「ペン、ペン」と呼んでいる。なんだかその名を呼び続ける母に愛情を感じた。歩けなくなったって、ペンはペンなのだ。

 村の女たちは、刺繍をうんとこさ!作って私を待っていた。本当は、今は見たくなかったが、村から移動していく人や、現金が即必要な人がいて、仕方ない。部屋中に盛り上がった刺繍を見た。
 村の刺繍グループの担当者のマイフアはいちいち説明してれる。
「これは、ワーレンのだから買わなくちゃだめよ」。ワーレンは、マイフアの家で暮らしている孤児の若者だ。
「ワーレン、男でしょ?彼が作ったの?」
「お正月にね、バイクに乗っていて事故ったの。相手が、怪我をして、まだ歩けないのよ。それで、うんと払わなくちゃいけなくなったの。」「どっちが悪いの?」「ワーレンが悪いって言われているの」
・・・・ということで、彼ら親戚一同は、お金を出し合って、その賠償金、治療費に払わなくちゃいけないという。いくらあっても足りない。

 それに、ペンの怪我。これも、親戚一同お金を出し合っている。

「この人はね、子どもがみんな勉強していて、交通費だけでもたいへんなの」
「この人はね、手が不自由なのよ。で、一生懸命作っている」
「この家は、もう食べる米がないよ」


 
回りには女たちが集まって、やんやかんや、私のは買った?買わない?買ってよ・・・・・全部買って!買わないの?わいわいやんやん・・・・・・

 しかし・・・だ。多すぎる。1時半頃から見始めて、8時頃までかかった。もう気持ち悪くなるかと思った。実際頭にくる。「なんで、こんなに大きなものだけ作るのよ。それで、何で私が欲しいものができてないの?あれだけ大きなものは作るなって言ったでしょう!小さい小物が欲しいって言ったのに」と文句を言い出すと、私も感情が高ぶってきた。
 そこへイェン・ロー(元副村長のおっさん)がのぞきにきて、「ニョー・ジョン(元気かい?)」というので、「ニョー・チ・ジョン(元気じゃない)よ。こんなに刺繍があって、もう疲れた」というと、「きよこはチ・ジョン(よくない)だ。大勢の女たちを回りに入れるから、刺繍が散乱して、無くなったらぼくたちの責任じゃないか、あんたがいけない」などといきなり言うので、もう、なんで、こんなに必死で見ているのに、その上そう言われなくちゃいけないんだい・・・と思うと、私は泣きたくなった。
 誰のためにこんなにぎりぎりの思いをして買っていると思うんだい?たいへんな状況がわかっているから、少しでも・・・・と思っているのに、買わなければ文句を言い、買えば買うで、もっと、全部買えという・・・いいかげんにしてよ!と一回は握っていたボールペンを投げた。でも、ここで私が泣き出して切れてもいけない・・・と思って、気を取り直したが・・誰か愚痴る人がそばにいたら泣いてしまったかもしれない。そんな様子を見ていたヌー・ションは、イェン・ローはよくないね、きよこはジョン(いい)のにね・・・なんて慰めてくれる。

 彼女たちの刺繍の腕は認めていて、なんとか生活の足しに・・・・と思っているものの、実際に、刺繍を山にして待たれていると、本当に・・・・・言葉をなくしてしまう。モンの人たちは、4,5歳になれば刺繍をはじめるし、今、小遣い稼ぎで、男の子たち、男たちもやるし・・・・実際、生活は大変だし・・・

 それにしても、今回のペンの事故や、バイク事故の賠償など・・・・せっかく、少しでも生活を軌道に乗せて行こうと頑張っているのだろうに、うまくいかない。バイクの運転、ゴミ拾いの挙句の事故・・・・・元々の山の生活から、道路脇の生活。その生活の変化に対応しきれないモンの人々のひずみが、いろいろなところに出てきている気がしてならない。



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